一生の担任エッセイ
Vol.08

指導者というプロであること

このような仕事をしていると、(どのような仕事でもそうなのでしょうが)
「あれ?それはなんか違くない?」と思うことがあります。

その違和感が何かと突き詰めてみると、大抵が「本人不在」であることが多いのです。
どういうことか、わからないですよね。

ここでいう「本人」というのは、目の前にいる生徒のこと。
私たち大人は、そばにいるだけで影響力があるということを認識し、責任を持って寄り添わなくてはいけないのです。

「(正確な学力は知りませんが)どんどん宿題を与えてください。」
「(少し具合が悪くても)勉強をさせてください。」
「(他の子はともかく)うちの子だけを見てください。」
「(どんなに遅くなっても)最後までさせてください。」
「(他の用事を優先するけれど)その分の授業を時間外で受けさせてください。」

このような場面に、子どもや周囲への配慮はあるのかなとふと考えます。
大人の事情や希望がそこに、見え隠れするのではないでしょうか。

私たちは常に「自分で漕ぎ出す力」をつけるべく、一人ひとりを見つめながら励まし先に進ませています。
ほんの少しの頑張りを引き出しながら、達成感を与えていくのです。

一つの目標の前に、大切なことを見失うこともあるでしょう。
しかしどんな時にも忘れてはいけないのは「本人の成長にとってどうか」というバランス感覚なのではないかと思います。

どんな時にも子どもの方を向いて将来を見据え、社会的使命を果たすべく日々子どもと向き合っていくのが、指導者としての姿であると考えます。

指導者であること。
どのような場面であっても「それって本当に生徒のため?」を繰り返し、どこまでも私は「指導者というプロ」でありたいと願うのです。

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